海がきこえる
現在の恋人と付き合った時、付き合ってすぐにジブリのアニメ作品『海がきこえる』を観させられた。
どちらかというとマイナーなそのジブリのアニメ映画を、わたしは最近まで観たことが無かった。それどころか、一切名前すら知らなかったのだ。調べてみると、映画として公開されたものでは無いらしい。
しかし、ジブリのトトロなどの王道作品よりは恋愛に偏った『耳をすませば』や『コクリコ坂から』なんかをこよなく愛すわたしにとって、この作品は受け入れられやすいものだと思っての鑑賞だったのだけれども、さてといざ観終わってみれば、これはわたしには非常に苦手な作品であった。
高知を舞台にしたこの作品は、甘酸っぱく、学生恋愛の王道な作品ではあるものの、わがままで少し自由すぎる女の子ヒロインがずっとどこか悪い人間のように思われていて、なんといえばいいのか、つまり自分のことを指摘されたように感じられて鑑賞中は妙に居心地が悪かった。
また、高知で育った人間以外にもどこか懐かしい、と思わされるような描写が多かった。波音、そこにきらめいた海、少し面倒な坂道、学校のざわめき。高校生の同性の友人との距離感、異性の友人との距離感、そのなかで生まれる歪みや嫉妬や美しい感情。淡々と進む物語の中に、わたしは大きな悲しさを覚えた。まあ、作品自体はめちゃ綺麗なんだけれども。
なんとも、用意周到に進みすぎている。
そんなこの物語の甘さが、自分の青春時代の苦しい記憶を美化させるわけもなく、さらに痛めつけてくるのであった。わたしの得られなかった青春時代を抉るどころか、否定までしてくるようで、自分に幾分か重なるヒロイン像はもっとどこか愛されていて、なにもかも、ああもう駄目、みてらんない!
そしてなにが悲しいってあんた、これをわたしの恋人が「これを一緒に観てくれないか」と嬉しそうに言ってくることである。
わたしの恋人は、映画を観ることが嫌いであるし、二時間ほど画面の前にいることが苦痛だという人間なのだ。そんなひとが、これだけは一緒に観たいんだ、と熱望する作品があるのだから、付き合った直後に観るしかないじゃあないか。
高知弁を馬鹿にするヒロインはムカつく存在であるが、ムカつく存在のまま突き通せばいいのに、容姿端麗おまけに成績優秀とくるもんだから観ているこちら側はたまらない。それどころか両親の離婚問題の間にいる、悲劇、美しく悲しいヒロイン。
いや、単純な一作品として鑑賞するならまだしも、わたしの恋人がいちばん好きだという映画として観させられるのはちょっとなんだかこたえるものがある。
わたしの恋人も、恵まれない青春時代を送って、だからこそこんなきれいな物語にそのやるせなかった気持ちを投影しているのだろうか。そう思うのだが、わたしは過去の傷跡を更に広げられているようだった。過去。
何が言いたいって、恋人の大分弁をいつも博多弁で馬鹿にしてごめんね、ということである。そしてインターネットにどっぷり浸かって『青春時代なんて自分にあったか?』ということを、半ばネタにしはじめている、そんなわたしの同類項にいるひとたちには「くれぐれも」鑑賞して「いただきたくない」、そんな作品であることに間違いはない。
木漏れ日の中から顔を出した、ツンツンした女の子に笑顔を向けられたい、とだけはこの作品を観て妙に思った。うだつのあがらない、主人公男子、お前はダメだ。