作家・ライター
シンガポール出身,元気なシングルマザー
鬱々とした陰気な感情を,
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自制できるくらいなら、最初から恋になど落ちないだろう?

20歳になった瞬間は、ドギマギしていました。

 

「これでもう成人ってことは、今日から私、いきなり大人って呼ばれちゃうの?」と不安になるほどに大人であることにまったく自信がなかったし、どこか「いやまだ子供ですから、甘く見てやってくださいよ」って言い訳していたように思います。

 

しかし気づけば27歳、今やもう立派にそれなりに “大人” 、です。

 

大人になると、周囲との話題も変わります。

女友達と集結すると、必ず自然発生的に起きるは恋の話題。

 

10代の頃も今も、恋の話題であることには変わりないけれど、その内容が少しずつ重みを増してきて。略奪だの不倫だの、養育権や慰謝料という言葉もちらほらと飛び交います。いやはや、重い、重いわ。

 

ねぇ、これが大人ってやつなの? 

だとしたら、なかなかにシビアだね。

 

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不倫だから悪いだの、結婚を目指すには年齢差がありすぎるだの収入格差がありすぎるだの。

私たちは様々な理由をつけては、なんだかシビアに恋愛を見るようになってきましたが、そもそも恋って情熱的に発生するものだし(あれ、私だけ?)、だとすればそんな様々な理由で自制できるならば、そんなものはきっと最初から恋じゃなかったのかもしれない。

 

自制できるくらいなら、最初から恋になんて落ちなかったんじゃないか?

そう思うと、恋ってばすごく不便なやつだ。意図していない時に沼に引き摺り込むから、理性とか自制がまったくもって意味を持たない。

転がり落ちるように、沼に溺れる。溺れたが最後、もう救いようがない。

 

周囲の人がいくら「やめときなって」と声を大にして耳元で叫んでくれたとて、恋をしている人間ほど愚かで馬鹿な思考回路のやつはいない。

そいつは理性を失ってしまった可哀想な存在だけれど、本人は楽しくて苦しくてふわふわとした幸福の中に浸っているんだから、なおさら救いようがない。

 

残念ながら、それが恋。

それを再認識すると、婚活サイトで的確に結婚相手を探すような人の理性の強さはすごいなと思うわけです。私、恋ありきの人間なもんで。

 

ロマンティック・ラブ・イデオロギー(結婚は恋愛ありきという近代を中心に浸透した考え方)に染められた私たちは、恋愛と結婚を別物ではなく、同じ線の上に続いたものであると捉えて突き進む。

だから、失敗するのだけれど、それでも恋愛ありきの結婚が正しいと信じて疑わない節がある。ばかだよねぇ。

 

でも、どうせなら恋に落ちたいし、恋に落ちた相手と結婚したい。

そんな相手と結婚したならば、生活する上で少しずつ不一致が起きてしまうことはわかっているのに、恋をしている時の人間ってば無敵で馬鹿だから、なんとかなるって信じ込んで結婚してしまうわけです。

なんとか、ならないのに!

 

 

最近このツイートがほんのちょっとバズったので、なんだかそういうことをふつふつと考えていました。

友人も恋人も、家族も夫婦の相手も。他人なんてね、変えられるはずがないんです。

 

なのに私たちってば、変えられると「なぜか」思っちゃうんですよね。そう信じて、なぜか結婚しちゃうんですよね。

結局他人は変わらないし、変えられない。それさえわかっていれば、世の中の多くの争いや喧嘩、ストレスはちょっとは減っていたかもしれないのにと思います。

 

わかるよ、わかる。

自制できるくらいなら最初から恋に落ちないし、馬鹿にもならない。けれども、けれどもだよ。そのまま私たちは結婚というゴール(な気がしている何か)に突き進むわけです、正解かどうかなんて誰にもわからないのに、なぜだかそれが正解だと信じて。

 

たぶん私は、50歳になっても、老人ホームに入るようになっても、ずっと恋をしていると思う。

きっとずっと、自制もできないだろう。また、夢を見るかもしれないし、「なぜか」勘違いもするかもしれない。でもまあ、それでもよかろう。

そうやって生きていくのって、結構楽しくないですか?

 

私はそんな自分が、案外嫌じゃない、んですよね。

人間、恋の炎にまみれて燃え尽きるように生きるのも、なかなかに楽しいですよ。10代の私には、そんな考えのまま大人になったと教えてあげたいものです。

 

さ、今日も恋をして生きていきましょう。がんばるぞー。

 

 

 

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