ウェブメディアが消える悲しみを、君は知っているか
ライターという仕事を辞してもなお、インターネットに浮遊する記事にはついつい目を通してしまう日々を過ごしています。どうも、雨宮美奈子です。
今日はちょっと文章のリハビリも兼ねて、ふと思ったことを真面目に書いてみようと思います。
先日、『フミナーズ』という睡眠情報に特化したオウンドメディアが3月末に更新ストップ、準備が出来次第、サイトを閉鎖すると発表しました。
【おしらせ】
フミナーズは、3月末をもって更新停止することとなりました。
睡眠情報メディアとして長きに亘り皆さんに愛される媒体となれたこと、とても嬉しく思っています。
本当に本当に、ありがとうございました!!泣
【サイト閉鎖のお知らせ】
| フミナーズ
https://t.co/wy7yFsKT4i— フミナーズ (@fuminners) 2019年3月29日
正直、ウェブメディアが乱立しているこの時代、よくある話なのだとは思います。
実際、どれだけのメディアが更新終了のお知らせを発表し、アクセスできなくなってきたことか。更新がなんとなく止まって、そのままふんわりといつの間にか消えてしまったことか。
それに、私自身はこの『フミナーズ』というメディアを何回かは目を通したことがあるものの、ブックマークするほどよく読んでいた熱心な読者というわけではないですし、知り合いの数人が執筆しているのは知っていますが、自分自身がここに文章を書いたことは一度もありません。
しかしながら、またひとつのウェブメディアがなくなる、このことに直面して私はただただ悲しい思いをしています。
廃刊よりも悲しい、ウェブメディアの消滅
紙媒体の雑誌がなくなるとき、私たちは「廃刊」という言葉を使います。
すたれるという意味を込めた「廃」の字を持つこの言葉は、なんだかウェブのサイトが消える以上に重みがあり、ショックも強いものだと認識されている……気がしますが、実際どうなのでしょうか。
まさについ数日前、 地方のマイルドヤンキー層の支持を受け、独自路線を走り続けたギャル系女性ファッション誌『小悪魔ageha』の廃刊が発表されました。
実は私は、『nuts』の増刊号として始まった2005年頃(書いててショック受けたけど、もう14年も前なのか……)から愛読しており、田舎の少女たちに光をさすかのごとく、キャバ嬢やホステスといった水商売の女性こそがもてはやされるその世界観に、田舎の中高生だった当時の私は衝撃を受け、遠くの本屋で毎月コツコツと買ったものです。
そんな『小悪魔ageha』が特別な増刊号から月刊誌になったときは、それはもう、嬉しかった。キラキラしている世界が眩しかった。そんな記憶が蘇ります。母が捨てていなければ今も実家にあるので、創刊号からほぼ全て揃っていると思います。
完全に余談ですが、実はその後、『小悪魔ageha』は紆余曲折あり、2017年には出版元の会社でドタバタして裏切り者が現れたりしたりで、実は現在『ageha』と名乗る雑誌はこれのほかにもうひとつありまして(しかもパッと見は見分けがつきにくいほどそっくり!)、ラーメン屋さんの屋号争いみたいなことが起きている状態です。ウケる。
ま、それ含めてロックでアゲハだよね、って感じで好きなんですけども。もちろん、私は本家の筋をひいたほうしか買っていません。
……と話は逸れましたが、今も定期購読し続けている私は(私の知人なら私の家のこの雑誌専用の本棚を知っているだろう)、この『小悪魔ageha』廃刊には強いショックを受けています。
しかしながらそこまで愛する『小悪魔ageha』以上に、私にとってなじみのあるわけではない、ひとつのウェブメディアである『フミナーズ』がなくなる悲しみのほうが強くあります。
というのも、ウェブメディアがなくなるのは「廃刊」ではなく、「消滅」だからです。
私たちはもう、消滅したメディアに二度とアクセスできないのか?
今回、サイトの閉鎖をする『フミナーズ』には、おおよそ1,000本ほどの記事があるそうです。
きっとその中には、記事を量産しなきゃという意識で始まった記事もあるでしょうし、ライターたちが丁寧に思いを込めて書いた記事、企業のPRを兼ねた記事など様々な記事があることでしょう。
雑誌の廃刊は、確かに悲しいことですが、出版社に問い合わせればバックナンバーが手に入ったり、メルカリやブックオフで探せば多少高くても現品が買えたり、なんなら国会図書館にさえ行けば絶対に記事を読むことは可能です。
だから数十年後には、古本屋の端っこで「え〜、2000年代ってこんな文化があったの?」と未来の若者が『小悪魔ageha』を発掘して面白がることもあるでしょう。もしかすると、それをきっかけにメイク盛り盛りなキャバ嬢カルチャーやファッションがリバイバルする、かもしれません。
他にも、たとえば江戸時代に発行された本はまだ、神保町の古本屋や博物館に残っています。
しかし、ウェブメディアはどうでしょう。
インターネットの海に溺れ、消滅したウェブメディアは、ほぼ残っていない現状があります。既に2000年初頭〜以前に消えたサイトは、インターネットアーカイブ(昔のサイトを復元できる自動魚拓みたいなサービス)など、様々な力を駆使しても少しずつ見られなくなっている今日この頃。
インターネットに長く触れてきた人なら、その悲しみを味わったことはあるはずです。
これは、消滅、という言葉がふさわしい状態だと思います。
パスワードすら忘れてしまった、個人の恥ずかしい黒歴史であるホムペ(若い人に説明しておくと、ホームページのことです)やブログなどが勝手に消えてくれるありがたさもありつつ、欲しかった情報に、そして懐かしのページにアクセスできない悲しみもまた、インターネット特有のものなのでしょう。
だとしても、二度とその情報にアクセスできない、その無力感にはいつも不意打ちをくらいます。
だから私は、ウェブメディアが消えることがとても、悲しい。
悲しくてやりきれない、そんな気持ちを持っています。完全に消えてしまう恐ろしさ、つらさ。喪失感、もうアクセスできない苛立ち。
紙媒体の雑誌以上に手間がかかっているとんでもない記事だって、ウェブメディアには多数あります。それらはいつか、企業の事情で、サーバー代の払いそびれで、いつかなくなってしまうのでしょうか。
この先、もっともっとインターネットだって変わっていくでしょうし、近い未来にはネットのページ全てを取りこぼすことなく、集合知のように何もかもアーカイブするようにはなっていくのだと思います。
ですが、だとすれば今はその過渡期。
ちょっとずつ、せっかく作ったコンテンツが消えゆく時代です。
その作者たちのせっかくの手間が消えてしまうなんてもったいないという気持ちもありますし、それ以上に、この時代に作られたコンテンツをいつの日か思い出したとき、手に取れなくなる。
その不便さ、そして悲しみはなんだか妙に悲しく、切なくありませんか。
(もちろん、好きなメディアがあるならすべてのページを魚拓しておけばいいという意見もありますが、メディアの存命中にそれができるともまた限らないわけで……)
私の作ったウェブメディアが消えた日
私がウェブメディアが消えることに、ここまで悲しみを覚えるのは「実際に私が携わっていたメディアがある日消滅したから」ということもあります。
自分が執筆や編集をしていたメディアがある日消えることは、ひとりの読者として消えることを受け止めるのとはまた違う、深い悲しみがあります。
およそ2年前。編集長という肩書きで、いつも通り出社したある日。
上司に呼び出され、「来週でこのメディアは閉鎖します」と通告されたとき。昨日まで、どんな記事を書こう、来月の特集はこれでいこう、あの記事なら企業に買ってもらえるだろう、と計算していた私の予定の崩壊。
そして何より、ここまで書いた記事に“もう、誰もアクセスできなくなる”こと。
その日の午後は泣きながら、自分の子供のように可愛がって作り上げた記事のバックアップを取りました。(会社の許可は取りました)
今もそのデータは、dropboxに静かに眠り、私以外の人間にはアクセスができない状況です。私が明日亡くなれば、誰もその記事を読むことはもうできないかもしれません。
会社の指示で動いていただけの立場であった私には、何もできない悲しみがありました。
そのメディアを引き取って独立することもできた、かもしれませんが、会社のリソースを注いだものであるという意味から引き取ることは実際にはほとんどうまくいかないはずです。(実際、バックアップを取るときも自分の閲覧用としてのみという条件で許可されました。当然ですね)
そのときに、(サーバー会社が勝手に消したり、私が突然死んでサーバー代を払えなくなったりしない限りは)自分がある程度はコントロールできる、ブログなどのメディアを持つ重要性、自由性を身を以て学びました。
以後、私はちょこちょこと化粧品発表会のレポートなどを積極的に自分のブログに書き記すようになり、自分のメディアとしてブログを活用するように変化していきます。
(ま、それでも、インターネット自体が飛んじゃったら終わりますけどね!★)
それは、私なりの「もう悲しまずに済むようにしたい」という思いのあらわれでした。
今日もまた、どこかのウェブメディアが静かに消えている
ウェブメディアは、それぞれによって予算のかかりかたや作り方が全く違います。
SEOで効果的な単語を抽出し、その単語に沿った記事を1記事たった数百円で素人同然の人間にひたすら書かせる、とにかくアクセスを増やすためだけのウェブメディア。
ときに1記事に10万円以上の経費をかけ、雑誌では不可能だった柔軟さで締め切りを無視して作り込み、伝説のような記事を取り揃えた(けれど収益化に困っていたりもする)面白いウェブメディア。
私個人としてはどちらのメディアのほうが上、下というのはないのかなあと思っていて、紙媒体の雑誌でも「よくこれで雑誌と名乗っているな」というものもありますし、「これで3,000円で売ってるの?もっと取っていいよ!絶対赤字じゃん!」みたいな雑誌もあります。
余談ですが、フリーペーパーならではの面白い取り組みなどもありますよね。
同じように、ウェブメディアにも色々なものがあっていいと思いますし、それぞれにすぐにはわからない隠された情報や面白さもあって、知見もあって、しかもそれは数年後にたったひとりだけが気づくものなのかもしれなくて。
収益に特化した無骨さも、愛情のこもった意義の強さも、そうやってたくさんあればいいと思っています。
こうやって書いてて改めて気づいたんですけど、私ってばめっちゃウェブメディア、本当に好きなんですね。自分で笑ってしまう。
だからこそ、消滅する、これだけは悲しくてやりきれないわけです。
その記事ひとつで、誰かが驚いたり、助かったり、にやっと笑うのは今日じゃなくて数年後かもしれない。なのに、そのときにアクセスできなくなってしまうのは、あんまりにも悲しくありませんか。
そんなことを書いている今日にも、きっと年度末なのでどこかの知らないウェブメディアがまたひとつ、静かに消えていることでしょう。
けれども、明日の4月からオープンするウェブメディアだってあるはずです。
私たちは、せっかくのコンテンツが失われやすいウェブメディアの時代を生きています。
だからいい記事に、いいメディアに出会った時には、どうかブックマークし、拡散し、愛してあげてくださいと思うばかりです。私もそうするようにします。
それでも消えゆくものは、記事はあります。
ですが、私にはまだそのいっときの儚さのようなものを楽しめるほどの懐の深さはありません。
誰かが手をかけた以上はどんなコンテンツにも、ついつい、やっぱりしがみついてしまいます。消えないでおいてね、いつの日になっても読ませてね、と願ってしまいます。
以上、雨宮美奈子でした。
追伸:
東京では桜の儚さも、来週いっぱいで終わりそうですね。短い。