作家・ライター
シンガポール出身,元気なシングルマザー
鬱々とした陰気な感情を,
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女という身体の輪郭が、私にはまだわからない

多分なのだけれど、私は私の「身体」のことがよくわかっていないらしい。

 

結婚も経た今、いまさら「えっと、処女なので……よくわかりません!」なんてフリをする気はサラサラ毛頭ないのだが、しかし自分の膣の位置ってよく分かっていないし(みんなはわかってるの?)、タンポンを使う勇気もないままにナプキンで乗り越えて来て、気がつけば27年も経ってしまっていた。

自分の下半身、まだまだミラクルや不思議がいっぱい。

 

私よりも、多分私を抱いた男のほうが、私の身体のことをより知っているのだろう。それぐらい、私ってば、私の身体の詳細に自信がない。仕組みだとか、その構造だとか。だって角度的にも見えづらいのだもの。鏡を使って覗く行為も、滅多にしない。

でも自分よりも自分を抱いた男の方が私の身体を知ってるってなれば、それっていろいろと手放しすぎちゃいないかと思うわな。

 

毎月の生理ですら、今もまだ来た瞬間がよくわからない。

未だに毎度「やべ、漏らしたか?」と謎の不安に駆られてトイレへ行き、鮮血を目にした瞬間に「ああ、あれか!そっちね」というほどのものである。

ってか、未だに尿を漏らしたかもしれないって本気で思う27歳も、どうかと思うけど。

 

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ちゃんとわかっている人は、排卵痛さえも明確に感じ取るらしい。

私の友人にもそういう人がいて、彼女は「あ、今排卵したわ」ということを子宮からの感覚で瞬時にわかるんだそうだ。まじかよ。

そして、「そろそろ生理来るぞ」という覚悟を持って、予想通りの日にどんぴしゃでくるという。

 

私だって「そろそろ風邪ひきそう、葛根湯を準備だ!」ぐらいはわかるんだけども、これが女としての身体としてみれば、めっきりさっぱり。これを、女としての身体性、とでも言おうか。

 

どうしてこんな風になってしまったのか、どこで排卵痛さえもわかる彼女と差がついたのか。そんなことを考えると、私はきっと自分の「女としての身体性」を思春期頃に手放してしまったのだと思う。

 

初潮を迎えた日、私はゲロゲロと吐いてしまった。気持ち悪かった。

女になることが、恐ろしく、それはもう恐ろしくてたまらなかった。だって、女だよ?

 

性的な目線で見られ、意図しない瞬間にも消費され、それなのにそんな道を放棄すれば女らしくないと責められる性だよ。なにが嬉しくて、女になる準備をしないといけないのだと思ったものだった。

小学4年生の夏にして(人よりも少し早かったかもしれない)初潮を迎えた私は、すでに「性未分化のまま大人になればいいのに」と思っていたような子供だった。それほどまでに、幼いながらにどこか社会を俯瞰し、嫌悪し、どうすればいいかわからずにいたのだと思う。

 

 

その当時手放した、私の「女としての身体性」のようなものが、27歳の今も未だに掴めずにいるとすれば、なんというか逆に置いてけぼりすぎる感じも否めない。

そろそろ、さすがに把握してような?といった具合だ。さすがにさすがに、このままでは女としてこれからも生きるんだし、恥ずかしいじゃないか。

 

だから私は、少しずつ取り戻そうとしている。自分の身体のことをちゃんと認めて、女としてここにいることも否定しないようにすることを。

胸の丸みなどの女性っぽい身体ラインが出てしまう服を意図的に避けていたが、スタイル良く見せたいときなら厭わずに着てしまおう。そんなことから、少しずつやってしまおう。

あと自分の膣の位置ぐらいは、さすがに把握しよう。そのためなら、手鏡で自分の性器と向き合い、たまに確認をするぐらいのことも必要だろう。だって、さすがに自分の身体だし。

 

私は、女だ。

そういうことをなぜか認められずにいるなんてさ、それってすごく悲しい生き方なのだと思う。だから私は自分の女としての身体をもっと認めてあげられるように、そして愛してあげられるように、もっともっと努力を重ねていこうと思う。

 

そうしなけりゃ、いつかもし『私が娘を産むことがあれば』、女でいることを嫌がってるだけの女が女を産んでしまうことになるし、それは悲しすぎるような気もするのだ。

子供を産むことを意識した年齢になった今、そういうことを思う。さすがにちょっと、大人になったのかもしれない。

 

 

 

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