Googleカレンダーから紙の手帳に戻ってしまった、わたしはアナログババアだ
初めてGoogleカレンダーに触れた時、「こりゃ便利だ」と思った。感動した。
iPhoneからでも、パソコンからでも、どこからでもいつでも同じスケジュールを見られて、なおかつすぐに書き込める。瞬間的に同期する。しかも、iPhoneはいつだって持ち歩いているから「手帳をわざわざ別に持つ必要がない」。
荷物は軽く、便利になって。毎年年末に次の年の手帳に悩む必要もない。
ああ、毎年Loftの手帳売り場を行ったり来たりして、何度も悩む必要が無いのだ。面倒だったもの。お気に入りのデザインの手帳が4月始まりしかない、でもわたしは1月スタートが欲しい、なんてことにもおさらば。
心も軽やかになって、わたしは手帳を持つのをやめた。
はずだった。
最近になって、紙の手帳がほしいと思い、購入した。
そう、結局紙の手帳に戻ってしまったのだ。
その理由は単純明快で、『書く楽しみ』の誘惑に負けたからだ。
白い紙に、大好きなJETSTREAMの0.5mmのペンでスラスラと文字を書く楽しさ。楽しい予定を書き込むときの嬉しさ、ちょっと面倒な仕事の予定を書き込むときの面倒くささ。そんなものをペンを持つ指先から感じられるのは、アナログの紙の手帳だけな気がしている。
なんだか紙に文字を書く時は、指先から自分の思いが文字ににじみ出る気がする。じゅわっと、そのクセのある字に性格が出る気がしてくる。右斜めにせり上がった字は、自信がある人の特徴だという。だとしたら、いつも右下がりのわたしは、さながら自信でも喪失しているのだろうか、笑ってしまう。
ペンで手帳に予定を書き込めば、そのペンを握った手のまま、何か別のものも書きたくなる。毎日のようにペンや鉛筆を握っていた学生の頃は、パソコンに向かってのほうが創作意欲やアイディアが湯水のように湧き出た。社会人になってパソコンばかりと向き合うようになってからは、不思議なことにペンを握ったときのほうがむくむくと何か書きたいというアイディアであふれる。
紙とペンは偉大だ。教科書の偉人の似顔絵に何度落書きをしたか、余ったノートの端っこに好きな歌の歌詞を延々と綴ったか。そんな懐かしい記憶も反芻する。ババアっぽい。
手帳を持つことをやめ、心は軽やかになったはずだった。はずだったのに、デジタルに黙々と予定を打ち込むその瞬間は、なんだか面倒で予定をないがしろにしている感じがして、心が苦しくなるばかりだった。 というか、なんだかしっくりこなかった。
ああ、なーんてことを言うと、デジタルな世代には「アナログババア」なんて思われてしまうのだろうなァ。利便性だけを見ればGoogleカレンダーの圧勝なんだけれど、なんだけれど、それでもこう不便なものを選んじゃうのは、わたしが20世紀に生まれた人間の象徴だな、なんて思う。
以前、16歳の子に初めて買ったCDは?と聞いた。返ってきた答えは「買ったことがない。初めてはiTunesのダウンロード」だった。驚愕した。
最近、25歳の子が、フロッピーディスクを知らなかった、見たこともないといい切った。わたしは現在26歳だが知っていたし、バリバリ使っていた。
一歳違うだけでも、ババアになってしまうのだ。
そうです、25歳から見ればわたしは多分ちょっぴりババアです。でもババアはさ、物知りだから。よりたくさんの楽しみを知ってるから。結構いいもんだし、わたしは27歳のババアが羨ましいくらいだ。いいんです、ババアで。ババア最高。
そんな感じで生きていれば、年齢を重ねることはそんなに怖いことでなくなるのかもしれない。
アンチエイジングしようぜ、美魔女になろうぜ、便利に生きようぜ、効率化しようぜ、って世の中はちょっぴり生きづらい。
年齢を重ねる楽しみも、ちょっと不便で楽しい道楽も、すべて愛してやくれないかと思う。思うんだけど、若い子には「ババア」って言われるんだろうな。
あ、でもやっぱちょっと、ババアって呼ばれるのはやだな。うーん、葛藤。