脆く弱い人間は、電気羊の夢を見るか?
人間ってものは、綺麗に形取られた美しい精神を目指すのを是とするわりには、あまりにも脆くて弱い。
だって人間には汚い面が多く、ずるい面が多すぎやしないか。
いやはや、清廉潔癖という言葉は、いったいどの人間のためにあると言うのだろう?
愛とはなんぞやと聞かれたら、多くの人はすぐに美しい言葉を紡ぐと思う。
でも実際には愛なんてものは非常に泥臭いもので、嫌なことがあっても真摯に向き合って、多少は踏ん張って執着し合うような関係性でも耐えていくような忍耐強さのことで、そうやって向き合ってきたものを愛と呼ぶ気がする。
……とすれば、私たちは人間のあるべき姿や愛の理想形にちょっと夢を抱きすぎている。
春の嵐が吹き荒れたこの連休に、私は小さな分岐点を迎えた。
銀座の交差点に溢れかえる人を眺め、中国人の観光客に囲まれていると、自分はもはや何者でもないのにここに突っ立っているだけの存在で、そもそも自分が人間なのかどうなのかよくわからなくなる。
街と自分の輪郭が曖昧にぼやけ、本当に何もかもがどうでもよくなっていく。
自分自身のなかで大きな葛藤を繰り広げ、私は爆発しそうになる感情を抑えむことに必死だ。
なんだかな。理想を追いかけ、夢を追いかけ、心血注いだものだけが必ずや自分に返って来るわけじゃない。人生ってば、ときにとことん残酷だ。特に愛なんて、穴の空いたコップに水を注ぐかのように無意味なことだって多々あるだろう。
人って、不条理だ。
筋を通してくれないことが多すぎる。
愛したって大事にしたって、どんなにいろんなものを注ぎこんだって、自分にもお返しがあるとは限らない。納得のいくギブアンドテイクが行われるとは限らない。
それでも相手を大事にしたいと頑張る気持ちは、やっぱり馬鹿馬鹿しいものなのだろうか。そうは思いたくないな、それだと悲しすぎる。
でも、そうやって向き合っていた相手に長らく裏切られていたとすれば、これはやはり馬鹿馬鹿しいものなのかもしれない。しれない、けれども。いや、でも。
恋愛でも友情でも、なんでもそう。
いつも私は人からの裏切りを簡単にうけるたびに、後ろから頭を殴られたような気持ちになる。私だけが独りよがりで、相手を大事にしていたんだろう。
相手は、私のことなんてどうでもよかったのに。
それでも、私は誰かに可能性を感じていたり、誰かに寄り添いたいと感じたら、その人を大事にする気持ちを大事にし続けたい。
それが私の矜持、意思。かっこつけてると思われても、もはや私にはそういう生き方しか選べないんだよ。だって不器用だから。
なあ。
夢を見させてくれ、夢を。
人間はずるくて、弱くて、裏切ったりする生き物だ。もうそれは事実だ。
けれど、私はそれでも人を愛したいし、大事にしたいし、そういうスタンスで生き続けたい。
私と縁がなかった人とは、距離を置くこともあるだろう。
でも執着したっていいじゃないか、執着させてくれ。裏切られたって、私はあなたのことが大事だったんだよってことは声を大にして伝え続けさせてくれよ。
今日も世界は相変わらずにクソで、裏切りばっかりだ。
でも私はクソみたいな世界の中で、つっぱねながら生きてくよ。だって脆く弱いから、これ以外の選択肢が、自分では選べないから。そして、選びたくないから。