作家・ライター
シンガポール出身,元気なシングルマザー
鬱々とした陰気な感情を,
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自粛期間のいま、人間らしい暮らしを失って

 

テレビで流れるニュースは、今日も繰り返しコロナについての深刻な数字を伝え、その危機感を伝えようと必死です。見ていると鬱々としてきますね、どうも雨宮美奈子です。

 

自粛せよ、STAY HOMEーーーと連呼されている今日この頃は、とてもじゃないけれど外出すべきじゃないことはよくよく分かっているし、政府や社会のその方針に従順に従うつもりも満々なわけだけれども、外出もできない、会いたい人にも会えない、したいことができない、交友関係を深めるイベントも開催できない、となると、いよいよ自分が社会的生物として生きていないこと、文化的な人間らしい生活を営めていないことを思い知らされます。

 

家にいろ!というのは簡単だけれども、それは同時にいつもの人間らしい生活をーーーそれはわたしたちが自由を掴み取り、利便性の向上を重ねてきた長い歴史の中で獲得したものを、どうしようもないと思いながらもこの手の中から手放す、ということでもあります。

さまざまな人の発明や研究によって実現した世界中を旅できる飛行機に乗ることはできず、呉服店の時代から続いている買い物文化のある百貨店で買い物はできなくて、最新の表現方法が詰まった映画館の大きなスクリーンの前で泣いたりはできない。

それはとても寂しくて、つらくて、あまりに切ない。

 

大きなマンションの一室である自宅に1日中いると、自分のいる部屋がまるでマンションという巨大な箱の中に何百個と作り込まれた無数の細胞壁の中のひとつであるように感じられて、自分は何か大きな集合体の中でひっそりと息を潜めているだけの存在に感じられてきます。わたしは、無数の蠢く細胞のひとつでしかないのか。

 

理由がなければ外出ができない今、ここはさながら小説『1984』の世界線。

 

一九八四年 (ハヤカワepi文庫)

 

監視社会の中でひっそりと歯車のようになって生きなくては、という精神状態になってしまいそうです。

 

または、映画『マトリックス』の覚醒する前の世界とでもいうべきか。

あの人間が入っていたカプセルに入って、安全に酸素と栄養だけが送られているような状態。それが今のわたしが閉じ込められたマンションの一室で、脳内に流され続ける楽しい映像……それが例えば延々と流れ続けるNetflixだとすれば、現在の東京で静かに自粛している状態と『マトリックス』はとても近いように感じられます。

 

わたしがネットスーパーで定期的に頼んである食料品は、オートロックの玄関を超えて、今日も自宅ドアの前に静かにいつも置かれています。

 

チャイムは鳴らされないし、配達してくださる人に会うこともない。

わたしはときどき自宅のドアを開けてはマンションの廊下を確認し、自分宛の荷物が届いていないかと見回すだけで、でもそれだけが唯一、今わたしがリアルの世界で他人と関わっている瞬間です。

 

供給されるものを受け取り、食べて、静かに生き延びるだけ。

そんなものが生活と呼べるのかすら、怪しい。そこに物語性や、面白い文脈はひとつもなくて、ただただこの与えられた自分の生命を健康な状態で延ばしていくということ。誰かに自分の菌などをうつさぬように意識していくこと。いまの”生活”とは、それだけでしかありません。

 

それだけをミッションに生きている日々は、完全に無味無臭、確かにここには水道も電気もインターネットもあるけれど、この日々があまりにも味気なさすぎて、人間らしい生活からは遠ざかっているように感じます。健康な生命を維持することと、日々文化的な生活を営んでいくことはまったくの別物です。

ここはまるで、自由がよくきく監獄のよう!

20代最後の年を、この若さを1日ごとに誰にも見せつけることなく、静かに消耗していくような虚しさもあるわけです。

 

もちろん、これが致し方のないことは充分にわかっているし、こうやって家にいることでどこかの命が救われたり、誰かの治療の邪魔をせずにいられることもわかっているし、この自粛要請を破る気もない、……けれども、この人間性を剥奪されたかのようなやるせない日々の苦しさはいつ終わるのか。

 

終わりが見えない自粛期間の今、どこに希望や楽しみを見出していくのか。それは各個人で考えることであるのだろうけれども、とても難しい問題にしかわたしには見えないのです。

 

いまの東京からは人々の息遣いや、文化が生まれる熱狂、野心溢れる生命力のようなものが失われていて、街中がひっそりとSF小説の世界に生まれ変わっていくような感覚があります。それは東京に憧れて地方からやってきた田舎者のわたしにとって、ショッキングな風景でしかありません。

 

今日も今日とて、友人と長い時間、画面越しに画面通話をする。

遠く離れた大阪の友人は、こちらも大変でと苦笑いするけれど、それはどこか遠い世界の話なようにしか見えなくて、画面の奥のフィクションのように見えて、わたしはこの部屋の中でひとり、ポツンと通話しているに過ぎないのだと思うばかりで。

 

何より、プツンとその電話が切れた瞬間、部屋の中に訪れる静寂に堪え難い孤独を感じると、会えるけど会わないときとはまったく違う、会いたくても会えない現実に打ちのめされます。

電話なら、プーッ、プーッと別れの音がする。それはそれで切ないけれども画面通話は、別れの音すらなく、静かな静寂に一瞬で引き戻される残酷さが際立ちます。

 

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それでもわたしは夫とふたりで暮らしていて、夫の書斎を覗けば「どうした?」と声をかけられる環境にいて、手を伸ばした先には体温のある夫の肌に触れることもできるわけです。それに今は何より救われていて、共に暮らす人間がいることに深く感謝しています。

 

ふたり暮らしで、既にこんな状態。

と考えれば、一人暮らしのひとは、一体どんな気持ちでテレワークをしているのだろうかと思い、それはときに発狂しそうなのではないかと勝手ながらひどく心配にもなるわけです。

もしもこの文章を読み、気が狂いそうだというひとがいたならば、わたしでよければSkypeやzoomでおしゃべりでもしましょう、ダイレクトメッセージで「今日の昼食はなんでしたか」と話しましょう。見知らぬフォロワーさんでも構いません、ご連絡ください。

連絡を取るというのは友人相手でもハードルの高いものなのは重々知っています、だからこそ、「ブログ見ました」と理由をつけて話しかけてください。対応できる数であれば、ちゃんと答えるつもりです。

 

静寂に満ちた東京は、いつも以上に孤独で気が狂いそうになります。家にいましょう、でも、ネット越しに上手に手をつなぎましょう。

いつか落ち着いた頃に、どこに旅したいか、どんな映画を映画館まで観にいきたいか。そんな話をしながら、ゆっくりと丁寧に未来への希望的観測をわたしは紡ごうと思っています。

今は、まだ。 

 

 

 

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