セックスは、スクールカースト上位の人にだけ許された特権行為だと思っていた
この感覚を共有してくれる人がいる気もする……、と一抹の期待を込めて書いてみるが、私は10代の頃、キスだとかセックスだとか、そういう他人との性的接触というものは「スクールカースト上位の人にだけ許された」ものだと思い込んでいた節がある。
最近、『セックスはスクールカースト上位の人に許された特権行為だと思っていた』というタイトルのブログ記事を書いたので寝かせているのですが、この感覚に反論がたくさんきたら泣いちゃうので公開するのを躊躇しています
— 雨宮美奈子 (@areyoume17) 2017年12月8日
お世辞にも容姿が良いと言えない私は、地味で自己肯定感が低く、典型的なスクールカーストの低い学生だった。
福岡の端っこにある田舎で過ごした中学時代、何度同級生の男子たちにブスだのなんだのと言われたことだろう。
放課後に通学路の田んぼ道を歩くと、同級生のカップルといつも遭遇したものだ。そっと歩く速度を落とし、できるだけ気づかれないようにと意識した日々だった。
テニス部やバレーボール部の可愛い子が、サッカー部や野球部の人気者と付き合う様を見せつけられると、「はい、納得」となっていたし、反論もなかった。自分が同じ土俵に立てるとは、到底思っていなかったからだ。
勉強を頑張って都会の高校に進学すると、容姿で勝てない層がいることを改めて突きつけられた。進学校だというのに、顔もよく、先生との世渡りも上手な層がいるんだなと驚いたのを覚えている。都会というのはすごくて、顔の造形がそもそも同じ人間なの?というぐらい違う人がいることを毎日思い知らされる。
15歳、いざ高校進学となってから慌てて容姿を取り繕った私は、眉毛の抜き方も下手くそで、髪を上手に巻けるわけでもなく、というかそもそも顔面の基礎もいいわけではないしで、既に自分の見せ方をわかっている容姿端麗な女学生と戦う気にはなれなかった。(なので、生徒会長になることで自分の道を見出そうとするがこれはまた別の話)
高校に上がると、ちらほらと「あの男子とあの女子が付き合ってるらしい」という噂の中に、「もうセックスもしたらしいよ」という話題も混ざるようになってきた。中学時代にはあまり聞かなかったレベルの話題である。
最初は「あの男子と、あの女子?ならば納得」という感じだったのだが、時折、「え?あんな容姿がイマイチな2人が?本当に?」と驚いてしまうような組み合わせの噂も聞こえてきた。
私には、驚きだった。勝手ながら「地味で容姿がイマイチな子や、たとえ容姿がそれなりに良くても変に浮いてる子は、異性とセックスする資格がない」と思い込んでいたからだ。もちろんここには、私も含まれる。
まったく可愛くない私なんかが、相手をドキドキさせられるわけがない。好きになってもらえるはずがない。キス? ないないない。セックス? もうそんなの、絶対ありえない。
顔だけじゃなく、スタイルにも自信がない。万が一そういうことがあったとして、脱いだ瞬間に「腹出てるな」と思われて、そういう気分になってもらえないんじゃないだろうか。
私は、そんな刷り込みに侵されていた。この原因は、3つあると思う。
ひとつめは、中学時代に男子学生たちに「ブスだ」と罵られ、刷り込まれたことによる、自己肯定感(特に容姿について)の喪失。
ふたつめは、少女漫画の読みすぎである。
『神風怪盗ジャンヌ』に代表される種村有菜作品、そして何より『セーラームーン』が好きな私は、容姿のいい、みんなに愛される主人公の作品に慣れていた。
そんな女の子になれなかった私は、そんな漫画を読むことで元気をもらえていた。しかしながらそれは同時に、「元気で可愛い女の子しかヒロインになれない」呪詛をくらう結果になってしまっていたのだ。
頭も良くてかっこいいタキシード仮面は、おっちょこちょいでかわいいセーラームーンを好きになる。怪盗シンドバッドは、ときに弱い顔を見せるが、友人や多くの男性に愛される怪盗ジャンヌに惹かれる。
あー、そうか、そうなのか。これに気づいた瞬間、私の中で何かが腑に落ちた。
小学生時代から「なかよし」や「りぼん」、「ちゃお」を通じて、私の恋愛へ「ヒロインになれる女子はこんな子だけだよ」という刷り込みがなされていたのだろう。そこに中学時代の男子たちの心ない言葉があいまって、私の変な固定概念を作り上げていたのかもしれない。
それに加え。
世間はなにやら、ブスやデブ、ババアに非常に厳しい側面がある。
これが最大の理由だ。アダルトビデオのパッケージを見れば、基本的には『可愛く若い女』がもてはやされていることは私にでもわかるし、容姿がイマイチなカップルが駅の端っこでキスをしていようものなら、「見苦しいんだよ!」と吐き捨てるサラリーマンがいる。
これが、美男美女のキスでもそのサラリーマンは同じことを言うだろうか?
『電車男』の物語が美談としてもてはやされた時代に、「これが電車男とエルメスたんのプリクラらしい!」とプリクラ画像が流出したことがある。果たしてその画像が本当かどうかは今となっては全くわからないが(そして多分違うと思うが)、その画像を見たインターネットの人々の声は「なんだよ、ブスじゃねぇかよ」というものばかりだった。
そりゃ、『電車男』の映画版やドラマ版では、美しい女優が演じているのだから文句はなかろう。画像が流出するまでは、本物がどんな容姿かは想像も自由だっただろう。
そこで「はい、これです」と出ると、手のひらを返したかのようにバッシングされていた。主人公がオタクで容姿がイマイチなのは物語でも描かれていたが、女性側の容姿をおのおのが勝手に美化していたからだ。
人々は、美しいビジュアルの人間には寛容だ。
特に女性に関しては、その傾向が顕著だ。逆に、太っているとか、顔の造形が時代に即していないとか、そして年齢が若くないだとか、そういうことはあざ笑っていいと思い込んでいる人が多い。
そんなもんだから美人で性格の悪い女は、通りすがりの人にでも「ダッサ」と聞こえるように言うことがある。自分の方がルックス的に優位なのをわかっていての、わかりやすい攻撃である。人生でこれに遭遇したことは一度や二度じゃない。
社会のこういう側面は、残念ながら事実だろう。
そんな社会に揉まれていたら、おのずと「容姿がいいやつしか、色々なものは許されない」ような気がしてくるものだ。
容姿がいいやつしかアイドルにはなれないし、ちやほやされちゃいけない。そこに私は、キスだとかセックスも含んで判断をしていた。
もしも。
もしも、何かの間違いで絶世のイケメンが私に気をもってくれたとしても、そんなイケメンと私が歩いていたら、美女が「は?」という顔で見てくるだろうと思っていた。なんなら、ラブホテルの受付にでも笑われるんじゃないか、とまで思っていた。我ながら、なかなか深刻な自己肯定感の低さである。
ありがたいことに私は10代のうちに、初めての恋人ができた。色々なきっかけ、偶然が重なったものである。
でも、自信はなかったし、それは奇跡のようなことだと思い込んでいた。だから一緒にコーヒーを飲み、話はしても、そこからなかなか進むことはなかった。性的なことに興味がなかったわけじゃない。けれども私は、そこまでしてもらえる存在じゃないと思い込んでいた。
(ちなみにそこで私は非常に独特な方向にこじれてしまい、性交渉はしないけれど一種のサークルクラッシャーへの道を歩むことになる……がそれはまた別の話)
《参考:過去記事》
もしも浮気されたとしても、それは仕方のないことだろうとどこかで思っていた。もしも顔やスタイル、私の陰気な部分が原因で振られたとしても、それもまた仕方のないことだろうとどこかで決意していた。
だけど、どこかで『30歳になっても処女だったらどうしよう』という不安がつきまとった。繰り返すようだが、世の中は、ブスとデブ、そしてババアに厳しい。ブスとデブが揃っている(と少なくとも思い込んでいた)私に唯一残された、若さ。
それも日に日に失っていくのだと思うと、それはひどく恐ろしかった。そしていつか年齢を重ね、3つが揃ってしまうときに、「なおかつ、まだ処女」という事実が横たわってしまっていたら、きっと結婚なんてできないのかもしれない。男性に、めんどくさがられてしまうかもしれない。
私は、これまた雑誌や漫画から得た情報を組み合わせた、私なりのそんな変な結論の中にいたのだった。今思えば、そこで血迷って適当に自分の身体を扱わなかったことは、本当に良かったなとは思う。
(ま、男性に自分が抱いて思えると思っていなかったというほうが本当は正しいのだけれども……)
無論、今ではこれらの考えが全て間違っているということはわかっている。年齢を重ねても、容姿が良いとされなくとも、デブでもブスでも、ババアでもジジイでも、誰も性的なものとは無縁でいられないし(性に関心がないという選択肢含む)、性経験がないことは別に恥じることでもなんでもないということ。なおかつ、自分の身体を自分の触れられたい人にだけ許すという大切さも、今ではよくわかっている。
結婚もした今、落ち着いて自分に向き合ってもらえるパートナーがいるということは、大事なことだと本当に思う。私は夫のことをとってもハンサムでかっこいい男だと思うが、だとすれば、私はそんな相手に選んでもらえたんだということをなおさらに忘れないようにしたい。
そして、私の顔がもっとブスになろうが、太ろうが、老けようが、そんなことごときで揺るがないように生きていたい。そんな私でも「いいね!」と言ってくれるひとはいるのだと思うし、容姿や年齢ごときに振り回されたりほどナンセンスなものもないだろう。垂れた胸も「エロいね!」と愛されるといいなあ。
ま、だからといって美容やダイエットへの意識をしなくていいということにはならないけれども(そこは努力できればそれにこしたことはないけども)、そこまで捉われなくてもいいのかなとやっと、27歳で思えるようになってきた。
結婚して3年目、女として生きて27年目。ちょっぴり気づくには遅すぎたかもしれないが。
容姿は何よりも勝る。それはこの社会においてちょっぴり事実かもしれないが、ちょっぴりなんだと思うくらいでいいのだと思う。
だから私も、あなたも、誰もが合意があればセックスをしてもいいと思うし、自信を持って生きていっていいと思うのだ。誰かの特権行為じゃない。それって、私の勝手でしょ。
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